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しずふく文庫(監修 小田部雄次)


静岡福祉大学附属図書館の文化活動
by otabey

津軽三味線の魅力

 今日でも、津軽三味線は現代的な独奏楽器として多くの聴衆を集めています。その理由は、音響の大きさ、現代的なリズム感などにあるようです。閉塞状況に置かれた若者たちが、意識の解放をこの津軽三味線に求めているともいわれており、ロックやジャズに通じる何かがあるのかもしれません。実際、「津軽じょんがら節」などは、エレキギターで弾かれることもあり、名曲として知られます。 津軽三味線は、普通の三味線と比べると大型で、胴は大きく棹も太く、駒も大きい。撥(バチ)は多く水牛製のものを使います。糸も太めのものを使うので、音に幅があり、低音がよく響きます。  津軽三味線の発祥の地は青森県金木町といわれ、1857(安政4)年に岩木川の渡し守の子として生まれた秋元仁太郎(仁太坊・にたぼう)の創作とされます。当時、渡し守は、士農工商の下に属する最下層の階級とされ、しかも仁太坊は疱瘡(天然痘)を患って失明しました。 
 仁太坊は生活のために三味線で門付け(盲人が芸と引き替えに食べ物やお金をもらう)をして歩きましたが、従来の三味線の音曲に満足できず、糸を変えて義太夫(浄瑠璃の一流派)の太い音色を出せるようにして、弾くというより叩き、演奏なども改良しました。
 その後も、津軽三味線は創意や工夫が重ねられますが、仁太坊を継いだ長作坊や高橋竹山など盲目の演奏家の努力を見逃すことはできません。長作坊や竹山も、病気で失明するという「不幸」を負ったのです。雪深い津軽地方、そして貧しい下層の身分、病気による失明など、幾重もの「不幸」を背負った人びとの人生への強い思いが、津軽三味線の底流にはあるのでしょう。その哀しみやエネルギーが、今日でも人びとの共感を得る大きな理由なのでしょう。
# by otabey | 2011-08-06 04:32 | 福祉豆知識

1 動かない背中

作・みたねひこうき 絵・きすこね

1 動かない背中_a0222798_1113296.jpg

バッシッ!!
チャは背中を思い切りたたかれた。
「なに考えてるらァ」
ミカンだった。
「うん…」
「好きな人でもできたっすか」
ゲンが側にいた。
「からかうもんじゃないらア」
「…」
チャは学食のテーブルに肘をついて、泰山木の丘のほうをぼんやりながめていたのだ。
「うん…今朝、おばあさんが…」
「ころんだっすか」
「…」
「たおれたっすか」
「せかすんじゃないらァ」
「いつも通る橋のところで…」
チャは自宅から大学まで自転車で通っている。栃山川と木屋川に沿って来ると、40分ぐらいで着く。栃山川と木屋川は木立の中を蛇行していて、何度か橋を渡る。自宅を出て最初に渡る幅1m、長さ6mほどの簡単なコンクリート橋があり、大きなケヤキとヒノキとセンダンとムクの四本の木で日陰を作っている。その四本の木に囲まれた根元に小さな祠が一つあって、その中にお地蔵様が祀られている。チャは、この橋を渡るたびにお地蔵様に心の中で語りかける。「今日一日平穏でありますように」「失敗してもくじけませんように」「笑われてもめげませんように」「嫌みを言われてもムキになりませんように」「誰もが幸せでありますように」。お地蔵様をちらっと見たとき浮かんだフレーズが、その日のチャの心構えになる。
「いままで気づかなかったけど、お祈りしているおばあさんが…」
「それはいるらァ」
「うちのばあちゃんも、粉川の地蔵さんに花や水をあげるっす」
「…そうなんだけど。ふつうじゃない…」
「踊ってたっすか」
「ちゃかすもんじゃないらァ」
「正座して地面に頭をつけて、じっとして動かなかった。はじめ石か何かかと思った」
「田んぼなんかにもいるっす。土くれかと思ったらばあちゃんやじいちゃんだったっす」
「土くれだなんて、失礼らァ」
「…本当に小さく丸くなって動かない。私が橋を渡り終わってもそのままだった」
「何か祈ってるっす」
「あたりまえらァ」
「ぽっくり様っすよ」
「それはありえるらァ」
「…そうかもしれないけど…おばあさんの丸くて動かない背中見ていたら、どんな人生送ってきたんだろう、今は何を悩んでいるのだろうって…」
「チャは優しいらァ」
「どうして?」
「ふつう、そんなおばあさんなんてどうでもいいと思うらァ」
「チャさんは、人の心に興味があるっす」
「…」
「福祉心理学科らァ」
「…おばあさん、かなり真剣だった…」
「今度、会ったら聞いてみるといいらァ」
「うちのばあちゃん、粉川の地蔵さんにはいつも同じ時間に行くっす。同じ時間に通れば会えるっす」
「そうらァ。あたってくだけろらァ」
「そうっす」
「それに、おばあさんの話、白岩士准教授のレポートにもなるらァ」
白岩士は、どの科目も受講希望者にはレポートを課している。受講前にレポートを課すことで、受講生のモチベーションを把握しておこうというのが狙いだ。チャが今度受講しようと思っている現代社会学の講義は、「人生の先輩に聞く」というのが課題だった。
「そうっす。みんなで聞きにいって、レポートにするっす」
「ゲンちゃん、ずるいらァ。チャのレポートらァ」
チャは、ミカンやゲンちゃんと聞きにいくのも悪くないと思ったが、黙っていた。「うん、今度会えたら、話しかけてみる」

(第2話へ続く)
# by otabey | 2011-08-04 15:42 | おばあさんとお地蔵様

道長の強敵

 藤原道長が摂政となったのは、長和5(1016)年のこと。「遠い昔(トオ・イ・ム・かし)の権力者」と覚えている人もいるでしょう。「この世ばわが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思えば」と、権力の絶頂の喜びを自ら和歌にしたことでも、その栄耀栄華ぶりがわかります。
 3人の娘を3人の天皇の后妃にして外戚政治を行い、時代をほしいままにしました。紫式部の『源氏物語』の主人公である光源氏には、道長のイメージも重なっているともいわれます。そもそも紫式部は、道長の娘・彰子(一条天皇中宮)に仕える女房で、道長との関係もいろいろ推測されています。 
 ところが、この道長、権力闘争には勝利しましたが、病魔には勝てず、かなり苦しみました。病名は「飲水病」。 当時の公卿であった藤原実資の『小右記』によれば、道長は、「しきりに水が欲しくなり、最近では昼夜の別なく、口が渇き水を飲むが、食事は減っていない。とにかく体がだるい」と、訴えていたのです。しかも、病状は悪化し、夜のみならず白昼でも、雑談している相手の顔が見えなくなったともあります。 今でいう「糖尿病」で、最初に口乾、多飲、多尿、倦怠感などの症状が現れ、次に、手足がしびれ、目に影響が出て、腎臓の働きも弱っていくのです。そして、道長は万寿4(1027)年に、背中におできができ、「背中の腫れ物に針をさせば、膿汁、血などが少々出て、うなりたもう声は、苦しみの極みなり」というありさまでした。糖尿病になると「バイ菌」への抵抗力も弱まるのです。
 癌あるいはハンセン病説もありますが、この年、道長は62年の生涯を閉じます。 昔の権力者はストレスも多く、またその慢心ゆえか、暴飲暴食、運動不足、不規則な生活に陥りやすく、糖尿病になる危険性があるようです。他人は制せても、自己を律することは難しいのでしょうね。どこか物資的に豊かな現代文明人に似ている気もします。 ちなみに、平成9(1997)年11月に神戸で開催された糖尿病国際学会の記念切手には、藤原道長と糖尿病治療のインスリン結晶の絵が印刷されています。
# by otabey | 2011-08-04 15:11 | 福祉豆知識

女優と地震

 女優の藤原紀香さんは、長い戦乱から立ち直ろうとするカンボジアの子どもたちへの援助を続けています。写真展を開いたり、カンボジア子供教育基金を設立しています。華やかな女優さんが、どうして政治的にも衛生的にも不安定な世界の子どもたちに心を捧げるのでしょうか。実は、紀香さんは、兵庫生まれの神戸育ちで、1995(平成7)年1月17日の阪神淡路大震災を経験したのです。紀香さんは、当時、女優への道を諦めかけていいたのですが、震災の打撃から立ち直ろうとする友人や仲間たちの応援に背中を押されるようにして有名女優への夢を実現していったのです。そのことが、困難にある人たちを援助したいという思いに繋がっているといいます。 地震は人類の受ける災害でも大きなもので、大地は裂け、家屋は倒壊し、時に炎上し、そして一度に多くの人命が奪われることすらあるのです。「地震、雷、火事、親父」という言葉は、昔の人が恐いと思ったもののベスト4です。「親父」の権威はなくなってしまったようですが、「地震、雷、火事」は依然として恐ろしいベスト3です。 そうした地震に出会わないで一生過ごせることは、とても幸せなことですが、火山国の日本ではなかなか難しいようです。しかし、そうした悲惨な災害の中で、たとえば、1891(明治24)年10月28日の濃尾地震で多くの孤児を救済した石井十次、災害で貧困となり売られそうになった女子を保護した石井亮一など、不幸なさなかだからこそ、人間として美しい行為を重ねた人びともおりました。1923(大正12)年9月1日の関東大震災では、世界各国から日本に多くの救援物資が届きました。でも、地震の被害にあわないのが一番です。もし地震が予知できれば、被災者を救済する以上の価値ある行為といえるでしょう。
# by otabey | 2011-08-04 15:09 | 福祉豆知識

正倉院の薬物

 正倉院は、756年に、光明皇后が聖武天皇の遺品を納めるために建てた校倉造りの「宝庫」として知られますね。シルクロードを渡ってきたグラスや美術品など当時の珍しい品々を保存していることでも有名です。 
 実は、正倉院には当時の薬物も60種類ほど納められていて、古代の医学や薬学のありようも教えてくれているのです。 テレビドラマで話題になったチャングムは、かつての朝鮮の王宮で働いた架空の料理人であり、女医でありましたが、あのドラマでも、チャングムがいろいろな食材や薬草などで、王様や一般庶民の病気を治していたことが紹介されていました。近代西洋医学の発達以前に、人々がどのように健康を管理してきたのかは、興味深いテーマです。 
 正倉院の代表的な薬物では、高貴薬である「薬用人参」(疲労回復など多様な効果がある)があります(現在でも1本200万円するものがあるそうです)。光明皇后は、貧窮者、病者、孤児などを救うために悲田院や施薬院を設置しましたが、患者たちのために、正倉院の「薬用人参」を30キロも使ったともいわれます。 
 また、「麝香」(じゃこう・麝香鹿の雄一頭から50グラムほどとれる)」も正倉院にある薬物のひとつですが、現在でも広く販売されている生薬強心剤の主成分といわれます。 
 そのほか、「冶葛」(やかつ・呼吸困難を引きおこす)と呼ばれる毒草(ゲルセミウム・エレガンス)もあります。729年に自害させられた長屋王の死にも関係していたといわれるものですが、記録では、正倉院の「冶葛」はその量が少しづつ減少しているというのです。この「冶葛」が政敵を倒すために悪用されたと考える研究家もいるようです。 
# by otabey | 2011-08-04 15:07 | 福祉豆知識